豊橋市下条東町の金西寺に伝わる文書の「當寺御開山御真筆」に、戦国武将の織田信長を批判するような記述が見つかった。1: :2017/02/03(金) 06:48:22.37 ID:
信長を批判する詩文が引用された古文書を説明する島田教授(右)と高崎住職
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月岑牛雪大和尚の肖像画の前で「當寺御開山御真筆」を持つ高崎住職㊧と島田教授(豊橋市役所で)
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調査した専門家は、仏教を弾圧した信長に当時の仏教界が抱いた感情を理解する上で貴重な史料だとしている。
「當寺御開山御真筆」は、江戸時代を代表する高僧の月岑牛雪大和尚が1619年頃、金西寺を開く際に書いたとされる。寺宝として長く収蔵されていたが、高崎俊幸住職(60)が豊橋創造大の島田大助教授(53)=日本近世文学=に解読を依頼した。
その結果、文書の冒頭に江湖散人という僧侶の詩文が引用されていることが分かった。1582年6月の本能寺の変の翌月に書かれたとみられるその詩文では、仏教を弾圧した織田信長を「大猿」「黒鼠」と蔑(さげす)むように表現し、「苛政暴虐枚挙に堪えず」と告発している。信長の治世を公家が糾弾した例はあるが、僧侶がここまで過激に書くのは珍しいという。
江湖散人と同一人物とされる集雲守藤は、子どもの頃に信長による比叡山延暦寺の焼き討ちを間近に見た可能性がある。辛辣な書きぶりから、島田教授は「信長に対する恨み、つらみが普通ではなかった」と当時の仏教界の心情を推し測る。
http://www.tonichi.net/news/index.php?id=58285
◇批判 本能寺の変の後か
豊橋市にある曹洞宗の金西寺(高崎俊幸住職)に伝わる古文書に、戦国武将の織田信長を批判的に評した詩文が引用されていると、調査した豊橋創造大学の島田大助・教授(53)(日本近世文学)が1日、発表した。詩文は、信長が明智光秀に討たれた本能寺の変(1582年6月)の翌月に書かれたとみられ、「信長がいなくなったことで、当時の人たちが心中に秘めていた思いを表に出せるようになったのではないか」と島田教授は話している。(藤川拓生)
金西寺の寺宝であるこの古文書は、寺の開祖である月岑牛雪大和尚が書いたとされる「當寺御開山御真筆」で、江戸時代前期の1619年以降のものとみられる。引用された詩文は、この冒頭にあり、集雲守藤(別号・江湖散人)という僧の作で1582年6、7月に起きた出来事が書かれている。
島田教授によると、この中に、信長について「金を多用してぜいたくな安土城を築いた」「比叡山の焼き打ちを行った」などと解釈できる表現があり、「黒鼠」との言葉も出てくる。島田教授は「『黒鼠』は、この詩文では『害を与える者』という意味で使われ、信長を批判している」と解釈する。一方で、明智光秀については「勇士であり、(信長を)討ち取っても、誰も批判しないだろう」という内容もあった。
詩文は、寺が開かれる時に祝辞として書かれる「開山記」として引用された可能性があると言い、「仏教界と敵対した信長が亡くなり、ようやく安心できる世になるという人々の思いが表現されているのではないか。それにしても、黒鼠という強い表現で時の有力者を批判した文書は珍しい」と話している。
http://www.yomiuri.co.jp/local/aichi/news/20170201-OYTNT50167.html
異論なコメント
頭の黒いネズミやんけ
この腐れ坊主共を容赦なく粛正した事だよなあ
寺院を焼き討ちされてんだからな
恨み骨髄だよ
比叡山が堕落してたのは事実だが、それで仏教界全体が堕落してると決めつけるはあまりに暴論だろ
そもそも寺社が武装してたのだって、そうせざるを得ない社会状況だったわけであって…
なにより信長がやった苛烈きわまりない虐殺が許される理由にはならないな
信長は敵対者に容赦なかったけど宗教そのものには寛容
あれ?小池都知事が言ってなかったか?w
ムスリムvsアメリカ軍の対立は避けられないことですか
当時の世界の歴史的事実を見れば
信長政権となればキリシタン(奴隷売買•一神教他教は邪教=抹殺)
日本は間違いなく植民地化されていた
光秀秀吉家康秀忠家光 賢人
ソレデハ皆サン、アテブレーベ
後世の人間が称えるんだから現代日本人も池沼なんだよなあ。
人間って科学技術が発達しても人格はまったく成長しないんだよね。
むしろ過去の人のほうが立派だったりするという。
姉の婿である浅井のドクロをさかづきにして酒飲んだりしたのは
創作じゃないんだろ?
ホロコーストした人間がなんで偉人扱いなんだよ基地害
頭がおかしいから頻繁に部下に背かれる。
彼の力で大戦果をもたらしたのは今川を潰した一戦だけで
あとはグダグダ。
部下が優秀だっり、周りの戦国大名が勝手に病没したり
自滅したりで運が素晴らしく恵まれてただけ。
不思議なくらいに有力大名が病没したからねえ。
何で自分達は罪も無い被害者みたいな目線なんだろう
坊さんも武器持って戦ったんだろ?で負けたわけだ
それを書物でまでうだうだ文句を書き残すとかフェアじゃないわ
それと今の葬式仏教と化して自堕落に過ごしてる坊さん見てると仏教はあの時代で無くなっておくべきだったなとつくづく思う
信長は無駄な殺生はしなかったように俺は思う。
無駄な殺生をしたのは秀吉。
でも弟殺し 満腹丸殺し 武田滅亡 浅井滅亡 朝倉は生き残った とか結構ネギリするよな
信長は仏教の各宗派を一律で弾圧したわけでもないし、普通に宗教として存在することは認めてる
敵対してきた宗派のそれも武装組織化してた一部を徹底的に潰しただけ
各宗派が普通に残ってたとしたら、キリスト教は宗教のひとつとして扱われるのが限界で、国教になるようなことはなかったのでは?
欧州諸国に武力侵攻されて植民地化された可能性もあるけど、個人的にはたぶん無いと思う
信長は結構温情で見逃している事が多いよ
それでも裏切る奴は皆殺ししてるけど
やりすぎたんでしょう。当時の仏教も健全だったとは言えないけどね、やりすぎなんですよ。
敵の大名の頭蓋骨で酒を飲んだ話なんてのはサイコとしか思えないからね。
いつの時代も同じ。人間の道を踏み外した外道は最後は同じような殺され方をする。
高松城水攻めや鳥取城飢え干しは味方の命を大事にするための戦法
信長以外の人間でも信行は殺しただろうな
二度目の謀叛だもの
自分の命を狙った者を一度は赦したのはむしろ甘い
うらぎらなくても北畠とものりとかころしているじゃん
そういう例外はあるけど戦国大名のくくりで言うと信長は割りと温情派やで
センゴクでは怖いけどねw
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まちがえた
秋山信友とおつやの方うそついて逆さ貼り付けにしているじゃん
最後はローカリストで落ち着くのが歴史だね
https://itp.ne.jp/shop/KN2300060600249265/
>金西寺 0532-(以下略
>愛知県豊橋市下条東町字古城(以下略
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E6%A9%8B%E5%B8%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E5%90%89%E7%94%B0%E8%97%A9
あぁ、金西寺があった付近は、尾張国じゃなくて三河国だったんだ。
その昔は、今川勢力圏で、吉田と呼ばれてて、その後、秀吉部下の池田輝政が吉田城に入城
その後は、徳川譜代が代々入藩する三河吉田藩になってた。
要するに、地場も織田の城下町というよりは、織田に攻め立てられた近隣地域だったのか・・・
朝倉と浅井を滅ぼし、比叡山を焼き討ちして信玄が死んだ後は大分勢力が伸びて
長篠の後はほぼセーブしなくてもクリア出来る状態に
北陸に柴田、西に秀吉、東に滝川、四国に丹羽と派遣しても余裕になった
結局、日本統一を果たした後には漢の劉邦がやったように、主だった家臣の粛清は行ったはず
光秀が背かなくても、敏感に感じた秀吉が叛いただろう
信長って、徳川家と家臣団みたいな粘着質の関係を嫌う人だったから
幕府なんて開いたりはしなかったはず
(家来の家来)家の格は低い
親父が尾張半国を押さえたけど、後を継いだのは16の時で
弟は逆らうわ、叔父さんも逆らうわで大変だった
それを上手く静めて尾張統一したんだから、本来ならそれだけでも立派だな
あと第一次信長包囲網で親族がかなり殺されたのも痛いわな
秀吉は光秀と違って織田家に仕える前は頑張って能力を発揮しても報われない環境を転々としてたから例え理不尽な事があっても結果を出せば認めてくれるような環境はありがたいだろ、光秀とは背景が違う
浄土真宗系のHPでは、未だに信長に対する恨みつらみが書かれているw
まあ、思われているよりは
ただ、本能寺の少し前は
相当キナ臭かったっぽいな、家中が
理由はよく分からない
日本なんて関が原でようやく5万そこらだっけか?
明に勝てるわけないじゃんw
家柄ランキング
1.足利将軍家
2.吉良家(足利本家滅亡時の将軍継承権あり)
→戦国時代は数千石まで目減りし単なる豪族に
→→家康の家系図改編により、無理やり徳川家編入し、その功績で高家筆頭に
→→→高家筆頭(全大名に礼儀作法を教える先生役)として大名イジメすぎて、事件を起こし大石蔵之介に討たれる。
3.今川家→信長に討たれて一気に縮小、滅亡に。江戸時代は旗本品川家として復活、東京品川の名前の由来になる。
4.細川家→天下取りの野望を持つが三好に乗っ取られて一旦滅亡。信長に使えた分家の細川藤孝幽斎が大名家に復活。肥後細川家になり、細川護煕総理でやっと天下を取れた(すぐ落ちたが)
5.大内家
たぶん6位ぐらい.斯波家、別名尾張足利家、一応一門らしい。
7位じゃない気もするが説明面倒なので7位扱い.上杉家、足利尊氏のお母さん実家。
という事で暫定6位、斯波家の家臣である織田家の分家家臣の家が織田信長の生家。
だいぶ、系統とか名門とかいう考え方で言えば、きわどいね。
まぁ、父親がやりてで勢力のばしていた、基盤があったとは言え、よくまぁのし上がった
そしたら千利休は誰だ
それは勝者の言い分。
当時の比叡山は今でいう総合大学。
そこにいた警備員と研究者と教員と生徒と避難民を粛清した。
信長や猿吉のそんな大したもんじゃない、ただの尾張の田舎猿だ
家康は、三河の源頼朝以来、三河が武家社会を牛耳る三河システムの継承者
比較すら失礼
日本の歴史(中世~近世)
◆鎌倉幕府(1185~1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338~1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国碧海郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国碧海郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467~1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603~1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614~1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
文字や文書なんかを取り扱ってる
知識の集約センターみたいなところであったと
武家だとか(公家もそうか?)長男は跡取りとして残って
次男以下の男児は寺に預けられることもあったけど
そこで知識を身につけて、文官や外交官としてどこぞに仕官するか
帰ってきて役に立てっていう意味合いもあっただろうから
宗教と知識との二輪で、利権が集まりやすい場所にもなっていて
その利権を自分たちで防衛するために私兵というか自主防衛として
僧兵っていう存在が出てきたわけだな
それ以外の宗派は怠け過ぎなんだよな
もちろん天台宗も比叡山を筆頭に寄り道し過ぎだ
綺麗事を言ってるだけでは自分たちの身は守れない
であるから、荒ごとだって辞さない
ヤクザまがいにもなっていくわな
それに対して、おまえら祈りだの、勉強だけしてろ
俺が守ってやるからって利権をよこせと迫ったのが信長で
再三の要求を突っぱねたら、見せしめに大虐殺されちゃったと
宗教に対する虐殺だって見方もできるけど
自治したい宗教勢力とそれを許さない世俗勢力とのぶつかり合いだわな
自衛もしていたし、交渉の余地もあったはずで
比叡山焼き討ちして最後謀反で殺されてるし
オウム真理教と同じとも言える。
カルトであり、テロリスト集団。
犯罪集団。
この事実があまり拡散されると、寺院はますます苦境に立たされるものだから、
この歴史事実が広まるのを、何とか抑え込みたいのだろう。
腐った歴史と、葬式仏教で金儲けしたり、時代錯誤のしきたりや習慣を持った寺院など
消滅したほうが世のためだろうな。
極論過ぎw
蘇我氏に滅ぼされた、視野狭窄な国粋主義者の物部氏じゃあるまいし
殆どを独断で成し、彼が手を振っただけで左右の人がささっと退出するとかくらい恐れられてるし
怒らせたらあっさり手討ちされるし
ただその割には一般人とも親しく交流し、ざっくばらんで親しみやすかった、ともあるし
秀吉の嫁にも頼られるし、身体障害者に優しい言葉をかけ、生活に不自由がないように取り計らったりしてるし
何とも分からん人だな
断れば呪詛か村八分と言う陰湿なイジメで
武家の台頭する原因でもある。
いわゆる僧兵(見た目だけ坊主で、中の人はただの暴れたがり)と、後は布教の為に全国を廻る
いわゆる高野聖(こっちも暴れたがり)に別れてたとか
暴れるのは僧兵と高野聖。比叡山なんかも似たような感じだったんかも
当時の日本にも、同じ思想があっても不思議では無い。
荒行として、今でも一部残るが
殆ど見られなくなった
そりゃ当時は仏教の自業自得だからだよ
さんざん各地で戦争を煽って、カネ稼ぎした仏教
カネがあるからこその強さ
大坂も大破壊を受けたし
そんな時代だから掘り下げると仏教は不利だぞw
残虐な独裁者にしか改革できない時代もある。
もしその時代に生まれてしまったら、諦めて殺されるか、それとも反逆して改革を頓挫させるか、二つに一つ。
現在あるのは、その廃墟を埋め潰して徳川が西国支配に利用するため作り直した別物。
戦国末期には崩れたガラクタに過ぎなかった東大寺大仏殿は、徳川に見事に再建されました。
他方、新参のキリスト教は、長崎に隠れた連中を除き皆殺しになった。
あらゆる意味で守旧派大勝利だ。
どれだけ憎かったのか。